清澄庭園

初代-彌太郎

久世家(公家ではなく武家の久世家)の時代
久世家は村上源氏より出て三河国に住み、徳川に仕え家康に従って江戸開府に尽力した。寛永13年(1636年)、一門から久世広之が出て大和守となり寛文3年(1662年)、下総国関宿城を賜わって居城した。関宿(現・千葉県東葛飾郡関宿町)は利根川と江戸川の分岐点にあたる交通要衛で、上屋敷を常盤橋御門に、中屋敷を箱崎町に、下屋敷を深川伊勢崎町に拝領していた。幕末になり久世広周は、安藤信正とともに老中として幕政を指導し、公武調和の処理に当たり幕閣の建直しに尽力した。江戸時代中期より伊勢崎町(清澄)に久世家下屋敷があったが、幕末維新の頃には所領を離れ、下屋敷も将軍に返上した。

上屋敷は主に藩主とその妻子など用、中屋敷は主に隠居や世継ぎなど用、下屋敷は国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷

明治4年(1871年)の『東京大絵図』によれば、伊勢崎町の敷地は徳川新三位中将(徳川慶喜の将軍職奉還後の官職)の所有となっている。明治9年(1876年)の地図では、前島密、四条隆謌などの所有となっており、当時の動乱による影響で持ち主が転々と変わっている。

岩崎家の時代
幕末頃の伊勢崎町と清住町には、久世大和守、戸田日向守、松平美濃守、松平右京などの諸大名下屋敷や、伊奈半左衛門、岡野竜之助などの豪族の住居があったが、維新後は新政府要人などの住居に変わっていった。明治11年(1878年)深川清住町と伊勢崎町の土地約3万坪を、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、以降、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代にわたって清澄庭園は引き継がれた。

1808年
1876年
1884年

関東大震災前
1878(明治11)年、三菱財閥創業者の岩崎彌太郎は、この地一帯を購入し深川別邸を整備、翌々年に竣工となり、迎賓館や社員の親睦の場として使用した。明治13年に深川親睦園として 一応の竣工をみました。

写真はジョサイア・コンドルの設計で1889(明治22)年に竣工した洋館。1921(大正10)年には庭園の東南を「清澄遊園」として市民に公開した。1923(大正12)年の関東大震災では近隣住民約1万人がここに避難し、火災から逃れることができたといわれる。

洋館:ジョサイア・コンドル
和館:河田小三郎
作庭:磯谷宗庸
涼亭:保岡勝也

震災前
清澄製材所
1932年

震災後
三代目・岩崎久彌は、震災復興にあたり深川別邸東側部分には医療施設の建設を計画したが、東京市(現東京都)は地震発生時の避難場所として公園・緑地の重要性を説くとこれに賛同し、震災の翌年の1924(大正13)年に東京市へ土地を寄付。東京市は整備ののち、1932(昭和7)年に「清澄庭園」を開園した。正面の建物は、1927(昭和2)年の大正天皇の大喪で使用された葬場殿を、翌年移築した大正記念館。

震災で被災した深川別邸西側部分は、1924(大正13)年、三菱商事が清住製材所を設立し使用した。震災後に急増していた木材需要に応えるためであった。写真は大正後期~昭和戦前期の清住製材所。前掲のジョサイア・コンドル設計の洋館は震災で焼失したといわれるが、写真左側の事務所と記載がある建物は洋館の一部であるように見える(詳細は不明)。

清住製材所は、戦後昭和30年代まで、この地に製材所を設けていたという。この土地は、1973(昭和48)年に東京都が購入、1977(昭和52)年に「清澄公園」として開園した。
清澄公園は無料の開放公園、清澄庭園は有料の史跡公園。まったくの別物として隣接している。

全国から取り寄せた名石が織りなす泉水、築山、枯山水を主体にした回遊式林泉庭園です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。
幼少の頃から石好きだった彌太郎は、自社の汽船を用いて日本各地の名石を集め、墨田川から庭園に石を運び入れました。造園時の利便性も考慮して、この川沿いの地を手に入れたのでしょう。隅田川から水を引いていたため、かつて池には潮の満ち引きがあり、岸辺に近い水底には沈んだ飛び石も見えます。

1885(明治18)年に、深川親睦園は弟の彌之助に引き継がれます。彌之助は会社の発展に伴い、イギリスの建築家ジョサイア・コンドル設計による赤レンガ造りの洋館と、和風建築の日本館、ふたつの迎賓館を園内に建設しました。1909(明治42)年には英国陸軍元帥キッチナーを歓待するため、彌太郎の長男・久彌により、数寄屋造りの涼亭が建てられました。震災と戦災を免れた涼亭は、全面改築工事を経て2005(平成17)年に東京都選定歴史的建造物に選定されています。
明治から大正へと時代が移る頃には、清澄親睦園は「清澄園(せいちょうえん)」と称し、雄大な景色と建物を備えた社交場として、その名声を高めました。